璃房ステンドグラス

DIARY日記

サイン

私が工房を始めたきっかけ、みたいなことです。
写真は原宿団地からみた工房の入ってるビル(中央の車の裏)
原宿団地は来年取壊し、19階建てのビルになるそうです。
私が工房を設立したのは28歳の時、今から13年以上前のことです。
10年間修行して山梨に帰るつもりでした。3年半の経験しかなかったので、早すぎると思われていました。
当時のことを簡単に言うと。アートスクールに2年間行った後、大手の工房に1年半いました。
1人で制作したいと思い、奥多摩の山梨県側にある廃校をお借りする許可を役場でいただきましたが、すごく迷って『もう少し東京でがんばろう』と思い直した頃でした。
工房を始める『サイン』みたいに感じたのはその頃のことです。
1995年3月。池袋の東武美術館に絵を見に行きました。なぜか迷ってセゾン美術館につきました。そこでは安井賞展をしていて、大賞受賞していたのが同郷のわたなべゆうさんでした。私はその絵をとても良く感じました。
それから2ヶ月程して、実家で地方新聞を読んでいると、わたなべゆうさんの個展を東京の豪徳寺でやることを知りました。絵を見に行くと、他にも客はいたのにオーナーは私にだけお茶をいれてくれ、床の段差に座って話をしました。作品展をする場所を探していた私に、神宮前のギャラリーを紹介してくれました。「外苑前っていう駅は知っているか?」外苑前?出不精の私は聞いたこともありませんでした。
外苑前で降りると。あれ~なんか感じのいい街、静かで、雰囲気が良くて、センスいい。そこが青山であることも知らずにギャラリーを探していました。
こんな所で工房が出来たら・・部屋借りるといくらだろう?帰りに本屋に行き、50平米15万が目に留まりました。そんなに高くない。他にも4~5件チェックして後日探しました。
本命の部屋は最後に行きました。この角を曲がるとあるはず、そう思って先の方を見ると白い3階建て、蔦が絡まる趣のいい建物がありました。あそこだったらいいな~と思いながら近づいていくと、だんだんきっとここに違いない、と思えてきました。ビル名を見た時ちょっと興奮しました。(今では蔦はありません)
それからの行動は早く、室内を見て、父に借金(意外な程すんなりOK)。物件は先に予約が入ってましたが迷っているとのこと。そんな時は神頼み『神様一生のお願いです、私に譲ってください』(ウソっぽいけど本当のことです)神様一生のお願い、は過去5回ぐらい(一生が多すぎ)しているがいつもかなえてくれる。
母に後から言われたが「白い蔦が絡まる建物は予感みたいにイメージしていたものだ」と私が言っていたらしい。
それからその部屋は私に決まった。
すばやい決断力だった。(だが一般的に決断力とは、晩飯を何処にする?とか素早く決めた方が評価される・・・気がする。)
さて、決断させたことだが。見覚えのある顔が頭の中で一致したように。道に迷ってわたなべゆうさんの絵を見た時から、新聞、豪徳寺、白い3階建てが頭の中で1っ本の線でつながっていくように感じたからです。直感でも思い込みでも何でもいいが、はっきりとしたGOサインが自分の中で出ていました。迷いはなかったです。
それがサインのお話です。工房の運営の仕方なんて何も知らないまま始まりました。
わたなべゆうさんの絵を買ったとき、豪徳寺のギャラリーのオーナーは亡くなったことを聞きました。
次はその頃の苦労話。ではなく、よくみた夢の話もまとめてかきます。